5た。因幡町、天神町、薬院へと、校地を移転し、現在は曰佐と古賀の2つの校地で教育を展開している。1952(昭和27)年11月に曰佐校地購入契約が成立、1957年12月には新校舎の設計が開始された。新校舎の建築に際し、当初は設計図のみをヴォーリズ建築事務所に依頼し、建築に関するその他のすべての業務は他の業者に依頼する予定であった。しかし、ヴォーリズ建築事務所の設立者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories,1880-1964)本人が来福し、ヴォーリズ建築事務所の能力を十分に発揮するべく建築設計から建築管理に至るまでを同事務所に任せてほしい旨の申し出があったという。こうして、曰佐の新校舎建築については、建築設計および建築管理をヴォーリズ建築事務所、施工を竹中工務店に依頼することとなった。新校舎の建築に関わる業者が決定したからといって、その全てを彼らに一任するのではなく、学院関係者らも一緒になって新たな地での新校舎建築にむけた取り組みがなされた。曰佐の地は、一面雑草と茅の原の台地であり、ヴォーリズ建築事務所の試掘によって地盤が軟弱であることが判明した。そこで、地盤全体を強化する方法として、この当時新しい手法であったサンドパイル工法が用いられることとなった。新校舎の建築委員の一人であった吉田茂一氏は、サンドパイル工法の確かさを確認するため、その工法を実施中であった関西の現場まで見学に行っている。さらに、同じく新校舎の建築委員の一人であった麻生徹男氏は、新校舎に用いる耐火ボードや壁面材料の品質試験を実施し、火力によって大音響で破裂する物があることに気づき、業者側1885(明治18)年、福岡美以美教会を仮の学び舎として、福岡女学院(当時は英和女学校)は出発しに使用製品について注意を促した。また、講堂の音響効果については、他大学の講堂やチャペル、公共施設のホールなどの音響に関する調査を実施するなど、きめ細かな準備がなされた。あまり慎重になりすぎて、失敗した例もある。それは、体育館の床張りで、床下の基礎部分をきれいに地均ししてその上にセメント張りにまで仕上げた結果、板張りの反響が地面に共鳴し体育館は「あたかも太鼓の上で、トランポリンでもしているよう」に音が鳴り響くこととなり、さらなる対策を講じる結果となったという。当時の年間聖句からは、曰佐という新たな土地で、新校舎という新たな「装い」での出発ゆえに、キリスト教により一層忠実であろうとする福岡女学院関係者の意気込みが感じられる。1960年3月28日、教職員と生徒が一丸となって行った薬院校地から曰佐校地への中高の移転作業が完了、同年5月18日には新校舎の献堂式が行われた。新校舎が完成した1960年度の年間聖句は「聖なる装いをして主を拝め」(詩編96編9節)、その翌年は「主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ」(詩編105編4節)であった。福岡女学院資料室 講師 「聖なる装いをして主をおがめ」「聖なる装いをして主をおがめ」井上 美香子
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