資料室ジャーナル 第2号
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国際キャリア学部 教授 徐 亦猛 2福岡女学院の歴史に大きな足跡を残した創立者J.M.ギール(Jennie Margaret Gheer)宣教師の豊かな人物像を知るため、今回はギール宣教師に関する2つのエピソードを紹介する。ギール宣教師は、1846年11月13日、米国ペンシルバニア州プレア郡ベルウッドで生まれた。ペンシルバニア州立師範学校で学んだ後、アンティス、タイロン、アルトーナ地区の公立学校で教員として働いた。彼女が所属した米国メソジスト監督教会婦人外国伝道会(Woman’s Friend Missionary Society of the Methodist Episcopal Church)は、1869年3月にボストンで結成された団体であった。婦人外国伝道会が結成される前、当時の米国で主な宣教団体は男性宣教師の派遣を目的としたものであり、女性は宣教師の妻としてのみ同行が許されていた。宣教師の妻は、宣教地に渡り、現地の女性の生活を目の当たりにし、その虐げられた姿に強い衝撃を受けた。そして、異教徒の中でもまず女性が、キリスト教の福音によって救われなければならないと痛感したのである。しかし、現地の風習によって、男性宣教師が女性に近づくことは極めて困難であった。また宣教師の妻は、宣教地で夫を支え、子どもを育てながら、クリスチャンホームを維持してゆくことに大半のエネルギーを消費するため、自ら女性への伝道活動に乗り出して行くゆとりはほとんどなかった。中には強い使命感から伝道を試みる者もいたが、健康を害する結果となり、宣教地からの報告書に宣教師の妻の名前が載る場合は、そのほとんどが彼女の死を告げる時であると言われたほどであった。その意味で、現地の男性宣教師と同じような活動を展開する女性宣教師はいなかった。そのような宣教状況の中、米国メソジスト監督教会の8名の女性は、同教会からインドに派遣されていた男性宣教師の妻の報告により、インドで女性が社会的に隔絶された状況にあるものの、男性宣教師はそれに対して無力であるという事態を知った。そして、インドの女性のために働くことができるのは、彼女たちとの接触が許される女性宣教師であり、その派遣がぜひとも必要であるとの要請を受けて行動を起こした。1869年11月に2名の女性宣教師をインドに派遣したのを皮切りに、中国、日本、南米、メキシコ、朝鮮半島などへ送り出し、米国国内の最大の婦人外国伝道会に成長した。ギール宣教師は来日の前に、婦人外国伝道会のインド支部から宣教報告を聴いた。召命を受けたギール宣教師は、インドへの宣教に大変関心を持ち、インドへ宣教の道に献身したい旨を同会に申し出た。同会はその志を受入れ、当初彼女の希望通りにインドに派遣することとした。しかし、長崎で伝道活動を行っている米国メソジスト監督教会から派遣されたJ.C.デビソン宣教師夫妻はキリスト教の布教には教育が重要であると考え、繰り返し本国伝道局に女性宣教師の派遣を求めていた。そのため、婦人外国伝道会は急遽、ギール宣教師に日本へ行くように任地替えを要請した。この要請を受けたギール宣教師は少々動揺した。なぜなら、彼女の心はもうすっかりインドへ向いていたし、日本について知っているのは、地図で見る限りアジアの近くのほんの小さな国ということぐらいで、その他のことについてほとんど未知だったからである。果たして自分にとって全く未知の国である日本に渡り、本当に現地で伝道の活動はできるのかとても不安であった。しかし、彼女は自分の希望J.M.ギール宣教師の逸話J.M.ギール宣教師の逸話 

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